再び目を覚ますと、頭の上には少しぬるくなった氷嚢があった。
そこから水滴が垂れて少し不快だった。
身体が熱くて、だるくて、たまらなかった。
今、熱をだしているんだ。と自覚した。
顔を横に向けると、「主人」が本を読みながら、椅子に座っていた。
遠い日の母親がそうしていたように。
眠る前聞いたのと違うヴァイオリンの協奏曲が耳に優しい。
しかし、かわらず胸の中には闇が広がっている。
俺が目をさましたことに気づいたのか、本を置き近寄ってきて、頬に手を当てる。
「まだ、熱が高いな。スープを用意したが、食べられそうかな?」
ベッドに腰掛けたまま、ポケットから携帯電話をとりだし、どこかに電話をかけた。
今自分の体温が上がっているせいか、頬をなでる手がひんやりして心地よい。
電話を再びスーツにしまい、氷嚢をどかせ、俺の背にクッションを押し込んだ。ベッドサイドのコップに水差しから水をうつし、自分の口にふくんで俺に与えた。
まるで、極上の甘露だった。
もっとほしくて、唇が離れきる前に、「主人」の唇を舐めた。
わらって、また与えてくれる。
部屋のベルが鳴り、スープが届いた。
今度はスプーンにすくって、与えてくれる。
暖かなスープはポテトを使用したものだった。
俺が好きだといったからだろうか?さすがに熱が出ているので、冷製は用意しなかったようだ。
飲み込むと胃にも暖かさを感じた。
どれくらいの時間寝ていたのかわからないが、空腹の具合からだいぶたっているのだろう。
すっかりスープはからになってしまった。
「それだけ、食欲があるなら大丈夫そうだね。薬を飲んでまた寝なさい」
薬を口に入れられまた口移して水を飲む。
優しく背中のクッションがとられ、頭に新しい氷嚢が乗せられる。
「ここにいてあげるから、大丈夫だ」
頬にまるでお休みのキスのようにやさしく一度キスされた。
さきほど口移しでふれた唇の感触を思い出して、わずかに口を開けてしまった。
今度は気づかなかったのか、また椅子に座ってしまった。
なぜか、涙がこぼれた。
言わなくてはならないと思った。
まだ、言葉になっていないけど、言ってしまわなくてはと思った。
「・・・ずっと、友人と呼べる人はいなかった。俺の周りにいるのは全て俺のライバルか、俺の能力だけを必要としている奴らしかいなかった。女が俺にもとめているものも、高い評価を持った俺のそばにいたいというのと金銭的なものそれだけだと思った。【もっと自分のことを考えてほしい】と女が言っていたことがあるが、わけがわからなかった。望みは口にすればいいし、具合が悪いなら俺に連絡せずまっすぐ病院に行けばいい、一人の方が休めるはずだ。そう思った」
たどたどしい他人のようなかすれ声。頭の中で文章を構成せず、思ったままを話すのは存外難しい。しかし、つっかえつっかえ話す俺を「主人」はまっすぐに見てくれる。そこに優しい何かを感じる。
「俺は、あの日重役や役員、知らない奴にまでレイプされた。信じられなかった。苦痛しか感じてないのに、「しまりがいい」とか「その顔がいい」とか「いつもすました顔してるくせに」とかいいながら、喜んで俺の上で腰を振っていた。訳がわからなかった。女でさえ前戯なしにつっこめば苦痛を感じるんだ。なのに、自力で濡れもせず苦痛に歪む男の俺になんでおったてるんだ?だが、すぐに状況を理解した。そういう奴らなんだって。家庭的で家族思いだって評価されている男でさえ俺につっこんで腰を振っていた」
そこで一度切った。もう大丈夫だと思っていたのに、生々しく血を流している傷口。
「俺は、俺を顧みてなかったんだ。俺がしたこと。俺から切り離されたことだけを評価して見て欲しかった。俺自身にスターや俳優のような外見上の特徴もない。そんな自分をアピールすることに意味を見いだせなかった。俺が俺を評価していなかったのと同じように、人がどういったものであるかを考えてこなかったからだ」
成果や成績とは、仕事の結果と仕事に関わる人間関係の中でいかにスムーズに物事を進められるだけの柔軟性を発揮できたかという総合評価だ。
割り切れる関係においては、それが表面上ならなおさら、自分を抑えることができればある程度のパターンを作れてしまう。
「だが、人間関係を数値で評価するということが幻想だと、あんたは俺に教えてしまったんだ」
仕事は成功するかしないか。成功するならどれだけ利益をもたらせるか、失敗するならどれだけ損益をとどめることができるか。
仕事上と割り切って人やそれぞれの関係を分析することはできる。しかし、人が百人いれば百通りの感じ方があり、表現の仕方がある。さらに、人が利益抜きに求めるのは表現しにくい人の内面。それを分析し理屈で説明しようとするのは困難だ。
「ここでは、表情や仕草が武器になる。だが、それは仕事でやったときもかわらない。なぜなら、ポーカーフェイスをするか、にっこりわらって握手してやるか、自分が敵か味方か教えてやる目配せをしてやるか・・・それら態度は仕事の重要なファクターだ。俺はそれを承知していて頭で考え実行し、なおかつ仕事の能力がたけていただけで、世の中を上手く動けていると思っていた」
そう、昨日まではそれが俺の世界だった。必要と不必要。分類しパターン化し、分析しどれが成功に結びつくかを選択する白黒の世界。
「だが、それだけが【人】じゃない」
「そうだ」
優しいが強さを感じる声が返される。
「人間には感情・感覚がある。動物にもあるが、決定的な違いは、感情の幅が動物に比べてより複雑であること、より内面に踏み込もうとすることにある。悲しいにも種類やレベルがある。好きだと言うことにも。お前は、それを明確に評価し利用法を考えようとした。病気の子供によりそって髪をなでる母親。その感情は心配など様々種類の感情を含めた「愛情」と表現できる。が、病気の子供は母親を何に利用しているのか?母親は病気の子供と回復させることを何に利用しようとして、また目的をもっているのか。それを考えるのが愚かなのだ。心配し回復するように心を砕くのは母親でなくても多くは気にかけている仔であれば誰しも感じる。わたしが今、お前に感じているように」
苦笑に似た笑顔が優しいと感じる。もっと話を続けたくて、苦労して身体ごと顔を「主人」に向ける。
「それに理由を求めたりより合理的な方法を求めるから破綻する。ただ、相手を受け止めればいいんだ。助けたいと思うなら最良の方法を考えてやるだけでいいんだ」
病気になって、薬を飲む治療をうけるも、それらは補助になるが結局治すのは自分。そして、治すことで将来自分の支えになってくれると母親がそこまで理性的に将来を見据えているかを考えるのは筋違い。なぜなら、母親が治そうと努力しても、結局治すのは子供自身の力。そして、子供がただ病気になって寂しく思うのも、母親が子供を不憫に思って甘やかし髪をなでることも、心配するのも理屈は必要ない。
病気が治る治らないをましてや運命論で解釈するのではなく、自然とわき上がる感情をそれぞれが大事にし、互いを思い合っているだけのこと。
以前はわかろうとしなかったが、今なら受け入れることができる。しかし、急に人は180度変われない。
「・・・仕事に関係しているならそうもいかない」
「ははっ、そこが今のお前の限界なんだよ。嫌な相手と仕事をするのは、心底疲れる。だから、私は信用のおける相手としか仕事しない。選べるだけ幸福だというか?探し出していないのは、自分の怠慢だ」
「それは理想論だ」
話をすり替えたことに気づいているだろうに、頭を撫でられ笑顔で返される。
「損益を考えて何かしなくてはならないと思っているから、お前は今袋小路に入っている。人をもっと感じること、自分のなかから湧いてくるものをもっと大事にしなさい」
自分のなかに湧くもの。
「・・・セックスは好きか?」
「好きでも嫌いでもない。でも、なんで男につっこみたいのかわからない」
「自分でつっこんで、腰振っていたのにそれをいうか。つっこんだところに快楽があるんだ、構わないだろう?」
「詭弁だ」
「私はお前とするのは好きだよ。もっともお前の苦痛に歪む顔よりも最後もっと高見に行きたいという貪欲な顔が一番いい。さて、長話が過ぎたね。休んで熱が下がったら、また話をしよう」
目の上にのせられる手の暖かさに安堵している自分を知った。
髪をなでられれば、安らぐ自分がいる。
励ますようになだめるように背中をなでられると落ち着く。
俺は人をどのように見てきたのだろうか。分析するのではなく、何を感じていたのだろうか。
評価するのと感じるのは別なことだ。生きている時間全てが仕事のように割り切れない。ひょっとしたら、俺が切り捨ててきただけで割り切れないことのほうがきっと多い。
「主人」は俺の目を開かせてしまった。世界がもっと広いことを教えてしまった。
主人と呼ばれる人間を裸に剥きその服を着て、主人を犬として侍らせる。2度目の逃亡が失敗した後、計画のひとつとして考えていた。
そのシュミレーションに笑った。馬鹿な連中を騙すにはいい手だと。だが、ここから万が一うまく逃げ出せたとして、どこにいったらいいのか不安があったのも確かだ。
逃亡が成功した後。頼れるのは、両親くらいしか思いつかない。だが、ここの人間なら両親をなんとでも言いくるめることができるだろう。そのリスクを考えれば、自分を誰も知らないところへ逃げなければならない。
あの会社に戻ることはもちろんしたくないが、自分ができる仕事を探さなければならないし、世間から隔離されていた分情報を取り入れなければならない。その途方もない作業を、そして、いずれまたどうあっても見つかってしまい、同じ事を繰り返さなければならないことを恐れる気持ちはなかったとは言えない。
人は生まれると、死ぬまでの瞬間のために生きている。
死ぬ前にどれだけの数字を残すことができるかをずっと考えていたが、何を残してもすぐに時間の流れが押し流してしまう。市場も社会も時間の流れは速い。
本当かどうかはわからないが、死んだと言われた両親を思う。
両親は俺を残した。女の腹を通じて誰かを残してその誰かがまた腹を通じて誰かを残していく。
それは生物の本質だ。
だが、人間と動物の違いは?
食うために事を行い、生殖能力が続くかぎり誰かを残す事はできるが、それ以外・・・
・・・それ以外のことに何かを見いだすのが人間だ。
そして、自分一人だけの孤独な世界だけで生きられないのも人間だ。会話し、触れることに安堵する。
仕事で評価され認められ、求められることを望み、それにおれは執着した。それだって一人ではできないことだ。
一人でやってきたつもりでも誰かが居なければ成り立たず、そして、誰かに求められたくて求めたくて生きていることを、初めて明確に知った。
苦しみだけが続くなら、生きていたくないと思うだろう。
だが、以前の生活のように、多少障害や問題が発生してもそれを処理し、満たされることだけが続くなら生きていたいのか?
仕事の能力を上書きするのはできる。新しく情報を吸収して脳をフル稼働させればできるだろうし、その結果を出すのもきっと以前と同じようにできる。
だが、・・・しかし。
どうしてか、そこに執着していたことを自覚したら、・・・前ほどに執着を感じない。
生きる全てをそこに見いだすことに不足を感じる。
(ああ、それだけじゃないことを知ってしまったからだ)
どうして、もっとクリスマスに家に帰って祝わなかったのだろうか。
誰かがそばにいることがこんなにもやすらぐことをどうしてこんなに長く忘れて入れたのだろうか。
自分はどんな顔をして、両親に会っていたのだろうか。両親は扉をあけて自分を家に迎え入れたときどんな顔をしていたのだろうか。その顔の裏にはどんな感情があったのだろうか。
楽しかった、嬉しかったと思ったときはいつだっただろうか。
・・・これといったことがでてこない。確かに、あったはずなのに。
仕事が成功したとき、嬉しかった。だけど、すぐに「次」があり、また「次の成果」を求めていた。
男たちに身体を投げ出したときは、思い通りにさっさといってくれたとき、突き飛ばして逃げ出せたとき、この町を走り回ったとき・・・一瞬だ。
だけど、ごく近い時に・・・
(ああ、この「主人」に・・・)
時間にしたらそう長い時間じゃない。
だけど、あのとき頭が真っ白になって、電気じゃない電流のようなものが全身を駆けめぐって、感じることしか考えられなかった。あのとき、確かに空洞を自覚していたのに満ちていた。
そして、今、隣にこうしていてくれることに安堵し満たされていることを感じている。
両親がクリスマスの前に俺を呼ぶために電話してきたとき、彼らは空洞をかかえていたのだろうか。俺の存在でしか埋められない空洞を。
俺が死んだと聞かされているなら、彼らは自覚しただろう。決してうまらない空洞を。それを癒すために旅行にいったのかもしれない。
俺が独立してから旅行らしい旅行をしていなかったはずだ。たしか結婚記念日に旅行券をプレゼントしたのに、うれしいから使えないといっていた。
最後の俺のプレゼントを無駄にしないために行ったのだろうか。
両親を今思うと、胸の闇が与える刺激の他に、ちくちくとした刺激がある。
ああ、これが悲しいということなのか。
*****
「館の書斎の本棚にあった小説を読みたいんですが・・・」
自分の望みを口にするときは緊張した。以前逃げるために「レストランに行きたい」と媚びてねだったときとは比べものにならない程に。だが、「主人」はからかうことなく喜んで、俺をドムスに連れて行った。
屈強な執事が前と同じように迎え、同じようにリードを壁にかけで、紅茶を用意した。
俺は棚に前と変わらず並んでいる書籍のうち1つを手に取った。
今日は、俺の他に全裸の犬がいた。
「主人」はソファに寝そべり、腹に頭を乗せるその犬の頭をなでながら、サイドテーブルにおいたチェスをしている。
俺は脱走計画を練るのをやめた。自分を観察するのに忙しくなったからだ。
毎日代えられるリネンの肌触りを楽しみ、食べ物を口にしたときの味覚とそのときに浮かぶ感情や感想をいちいち楽しんでいた。
「主人」は俺がいろいろなものに興味を持ち始めたのを喜び、いろいろ持ってきてくれた。俺たちは日常生活についていろんな話をするようになった。
だが、犬としての本分を忘れないよう、人間らしい扱いはしなかった。
たとえば、服を着せない、食事でもフォークとナイフは用意されない。リードを繋ぎ四つんばいにさせて歩かせる。・・・そして、仕事の話はあれ以来一切しない。
それでかまわないと思えた自分がおもしろかった。
人間扱いはこの先の楽しみだ。フォークとナイフを使わないから、金属の味を感じることなく食事を楽しめる。
気取らずに紅茶を飲める。
子供時代にだめだといわれたこと、ここの外ではできないことができる。
彼に抱かれるとき、喜んでいる自分を知った。
あの日、牡であるよりも牝となることを選んだことで、何かが変わってしまった。
その直前、自分の変化を恐れていたが、変化はそのときにはもう終わっていて、理解したくなかっただけなのだと今になって思う。
まだ、胸の闇はなくならないが、小さくなったり薄くなったりした気がする。
少しの間中庭にでるのも許されるようになった。
そこで、ほかの犬とすこしずつ話をするようになった。
そのなかで、買い取られない犬は調教権を買われるだけなのだと知った。最初期間を決めて契約するらしいが、途中で解約されるケースもある。
最近「主人」以外に俺を見に来る奴が増えた。
俺はそれに不安を感じている。
今の「主人」に愛着をもっていることを知った。
思考が様々感情にいざなわれて連鎖していく。
それがおもしろい。
ただ、しばらくしたらこの「主人」に2度と抱かれることがないかもしれないと思うと、胸に違和感がある。
ああ、これはなんだろう。
まだ、不明な形をもったものはとりあえず、脇に置いておこう。
今は、とりあえずこの本が読みたい。紅茶を少しなめて、チェスが動く音を聞きながら、この本が与えてくれる刺激が俺の中にどういう波紋をつくるのか今は知りたい。
そして、この穏やかな時は今しか楽しめないのだ。
俺は本のページをめくった。
2008.04.20 saoto
エピローグ
久しぶりだね。皆に・・・そう、君はその中にいなかったが・・・、馬鹿にされたあと、久しぶりに真剣になってしまったよ。
・・・しょうがないな。大切な友人である君にだけは話そう。
そう・・・あの仔が元来プライドが高く、そして、私が手がけたときにはすでに壊れかけていたことを知っていたかい?
自分の居場所とは、あの仔の人生の中で、常に用意されているものだった。
まぁ、たいがい我々もそうだけどね。どこの誰の元に生まれたのか、その保護者たる人物の人格、つまり環境。コウノトリが運んでくれた先は、どうしようもない。
そばにいる人の人格や持てるもの与えられるもの、それら環境に、出会う対象や刺激を与える対象が選別され、それによってある程度興味や嗜好も指向性を持ち限定された物になってくる。
つまり、保護者を含めた自らが置かれている環境が境界条件となるわけだ。
簡単に言い換えれば、貧しければ貧しいなりの、裕福なら裕福なりの世界がある。目の前に現れる物が異なり、人格に影響を与える。環境が人格形成要因の大部分を占めるという心理学の初歩だ。
無論、その環境から飛び出す選択はどんな場合だってある。だが、自分の力しか信じられない苦難の選択でもある。
また、飛び出さず、その世界の中生きるのなら、境界条件のある限られた世界の中で自分が何に満足するかを知り、自分を確立し、馴染まなければならない。
カゴの鳥のほうが一見安全で快適に見えるが、これも見方によっては苦難のある選択だ。
・・・人間はどうやっても苦難から逃れられないように造られているな。
それはさておき、あの仔はこれまでの人生において、常に後者を選んだ。
結果、与えられた境界条件の中で、効率よく自分を満足させ自己実現する方法、市場の中で比較しやすいように、能力を数値化し成果を数値でわかりやすく得ることを自分の中に確立した。
その手段がどれだけ世界を狭めてしまうか、あなたはご存じだ。
自分をとりまく境界条件と、自分の世界の基準を厳密に限定すると、はからずも自分に限界値を設定することになる。つまり自分が理解しないものを否定し拒絶する。
あの仔の仕事には確かにセンスがあり才能があった。だが、あの仔の世界は狭すぎた。
能力が劣ってきたわけではない。
そのまま続けていれば、冷血とも老練とも言われるそれなりの成功は収めただろう。
・・・しかし、女神は気まぐれを起こした。
全ての世界を捨てさせられ、理解しようと思ってこなかったものを突きつけられた。
実際、今思えばアイデンティティがいつ崩壊してもおかしくなかった。
しかし、プライドの高さと、【それまで居場所は与えられてきた】ことが災いしたのだと思う。
レイプされようと、厳しい仕置きがあっても、しまいには獣姦されぎりぎりになっても、あの仔の心は折れなかった。
そして、一年以上経っても、問題犬であり続けたのは、結局あの仔自身の選択だ。
自分にどれだけの価値があるのか、自分の認識外の基準を理解しようとしなかった。だが、【逃げ出す恐れのある犬】の調教を成功させるという付加価値の意味は、認識していたかどうかわからないが、頭の片隅で分かっていたと思う。あるいは、手に負えないと放り出されることに希望をみていたのかもしれない。
だから、価値を落とさないよう、問題犬であり続けようとした。
もちろん、あの仔自身以前の生活に未練を感じていたし、ここから逃げたかったのも事実。それを目標だと思いこんでいただろう。私はそれを暴き、あの仔の限界を突きつけ、それまでの価値観を壊し、新しい世界の庇護者として振る舞っただけだ。
新しい世界を、私が用意した居場所を受け入れたからよかったが、そうじゃなければ、あの仔は発狂したかもしれない。
ここまで聞いて、あの仔の印象が変わったかい?
なら、私は非道な人間さ。
調教に成功した?あの仔が幸せだと?
それも今だけだ。
・・・私にはこの胸の中に【唯一】を持っている。あの仔にもそれを持って欲しい。持たざる者も持っている者と同じく強い。だが、持っている者の方がより人生を楽しむことができる。
それが私であれば、私の調教が成功している証であり、私はより深い満足を得ることができる。
あの仔と別れるとき、それに確信を持てたらそれでいい。
ははっ、『愛しいものが、私を思って悲嘆に暮れている』なんて、甘美だろう?
・・・ああ、我らが偉大なる方は私に色好い返事をくれないらしい。
最初から、こうなるとわかっていたんだ。
私は、最後そう吐き出した彼の瞳から一粒の雫が流れたのをみた。
彼にも私にも何頭かの愛する犬たちが居る。
皆等しく愛している。その愛するものたちの中のただ一人のために、他の愛するものたちを全てを・・・
いや、最前彼は「わかっていた」と言っていたじゃないか。
まったく、運命の女神は気まぐれだ。
「近いうちにみんなを連れてうちに遊びに来いよ」
無言で杯をあけ、悲痛に疲れた表情を隠し立ち去る彼の背に私が言葉を投げかけると、彼は一度こちらを振り向いて返事をした。
・・・私は、女神が自らの気まぐれに気づき、その責任をとってくれることを祈る。愛すべき隣人の為に。
〔 了 〕
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